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「大いなる沈黙へ」 [iphone]

「あったらいいな」という物は、
「なくてもいい物」なんやで。

欧州に暮らす友人が言った言葉を、今も思い出す。
当時、気楽な身分で、友人たちを頼って、ときどき欧州にぶらぶら旅に出たりしていた。ちょっと旅行したくらいで他の国のことなどはわかるはずもないのだが、観光ツアーではなかったので、人々の暮らしなどもちょっと垣間見れて、今思えば貴重な体験だった。
私が訪れた都市が、大都市ではなかったせいもあるのかもしれないが、おしなべて、日本人のようにモノを欲しがらないように見えた。そのことに不自由を感じてるわけでもなさそうだった。日々の暮らしを自分たちらしく落ち着いて過ごしてるように見えた。
感化されやすい私は、それから何年かはそんな暮らし方に憧れていた。

月日はずいぶんと経ち、その間に、私の住む街には、辻々ごとにコンビニがしらじらとした光を夜を徹して撒き散らし、隔駅くらいに作られる巨大ショッピングモールが、画一的な商品で人間を均一化し、資本主義がステレオタイプな生き方を植え付けて利益を吸い上げ続ける。バカバカしいとは思いながらも、否応無しに巻き込まれている。

改めて、そんなことを考えてしまった映画が、今、巷で話題の「大いなる沈黙へ」、フランスの、戒律の厳しい、グラン・シャルトルージュ修道院のドキュメンタリー映画だ。監督が、6ヶ月、修道士たちと暮らしを共にしながら撮影されたもので、戒律によって、日曜日の午後以外は会話が禁じられているので、台詞はほとんどなし、撮影の条件として、ライトなし、カメラ一台、ナレーションなし、音楽なし。カメラは、修道院のたたずまいと山の景色の美しさに調和した修道士の日々を丁寧になぞるように映し出す。
厳粛なムード、研ぎ澄まされた沈黙・・・そんな予想を胸に映画館を訪れたが、見終わってみると、意外というか、生きることに対する積極的な表現を感じとれる映画だった。静かな暮らしではあるのだが、どなたかが感想に書かれていたように、案外いろんな音にあふれている。椅子を引く音、布地をピンとのばす音、立てかけてある金物器が微風にそよがれてカタカタなる音。石造りの建造物のせいだろうか、それらは存外大きく響く。決して心地悪い音ではない。私たちは、日頃、様々な不要な雑音にまみれて、「存在に付随する音」に対して無頓着になっていることに、改めて気付かされる。
修道士たちは、一日の大半の時間を占める「祈り」を通じて、「自分の内なるところに響く神の声」を聞く。それは即ち、「自分自身と向き合う」ということなのだと思う。「神」という象徴を媒体として、日々自分の内なるものと向かい合う。大半の日本人がそうであるように、私は無神論者だ。「神」という象徴を持たぬが故に、彼らのように内なる自分と相対することが困難になっているのか。
戒律は厳しいが、その暮らしは、苦行ではなく、安らぎに満ちているように見えた。「すべてを捨ててその身を神に委ねる」・・・捨てられないような、必要なものが、そんなにあるのだろうか?自分の内面にこそ本当に大切なものがあるんじゃないのか?物質文明は、人間をガラクタに埋れさせて、本当に大切な目に見えないことを奪っていったのだなあ・・・

世界のすべての人間が、この物質市場主義の社会について、今一度考え直すときが来ていると思う。そうでなければ、これからも、人々は心を病み、戦争が起こり、環境は破壊され、今の文明社会は滅んでしまうだろう。その時生き残った人々と、この修道士たちの姿が重なって見える。そのとき人類は、永く失っていた自分を取り戻すことができるのではないか・・・そんなことを想像した。

光と影の織りなす美しい絵のような、静かな成り行きに、まどろみそうにもなりながら見ていると、だんだん、そのペースに慣れてくる。見終わったころには、すべてのシーンが雄弁に心に語りかけてくる。ぜひ、映画館で、グラン・シャルトルーズを体験してください。






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